真の格闘家 1

空を薙ぐ拳。

男が虚空に拳打を繰り出すたび、風を切るような音が聞こえる。鋭く、重く……そう意識し続けながら放たれる拳は、まるで空気の壁を破らんとしているようにすら見えた。


男は20かそこらに見える。若いが、彼自身の雰囲気と構えにはまるで隙が無かった。

見るものが見れば、若くして拳を極めていることに驚いただろう。


ふと、日が沈みかけていることに気づく。修行のためこの森に入った時には朝日が登る前、辺りが白みがかってきた頃だった。


男はすぐそばを流れる川に歩み寄り、無造作に身を投げた。朝から休みなく鍛錬に励んだせいで体は熱した鉄のように熱くなっている。それを川の冷たく澄んだ水に浸しながら、ここにきた理由を思い返す。


武闘大会ーーー。

巨大な闘技場で年に一度行われる格闘家の頂点を決める舞台。優勝した者には、大陸最強の称号が与えられる。


男がこの地を踏んだのはそれが理由だった。



森から出て30分ほど歩くと、街道に寂しげに立つ小さい宿がある。男は宿の入り口を開け、中に入っていく。


「デニス様、お帰りなさいませ」


奥から女性が姿を現す。この宿を一人で切り盛りする主人だ。名はシアラと言った。


30になるかどうかと言った年齢に見える。化粧を一切しないにも関わらず大変な美人だった。エプロン姿で真面目に宿を回し、伏し目がちで控えめではあったが微笑みは春先の花を彷彿とさせる。

ブラウンの髪は長く、背筋は控えめにまっすぐで、肌は白い。


「ご夕食の準備ができております。お部屋へお持ちしますか?」

「…頼む」


言葉少なく2階の部屋に上がっていくデニスを見送る。シアラは不思議と、彼の無愛想な態度が不快ではなかった。

彼の目は真っ直ぐで、余計な感情がなかったせいかもしれなかった。


「……」


シアラは彼が消えていった2階の部屋を見つめるのだった。




翌朝。

外から聞こえる賑やかな音にシアラは目を覚ました。窓から差し込む光はまだ弱く、まだ太陽は顔を出してはいなかった。


目を擦りながら窓の外を覗き込むと、そこには大勢の人が街道を歩く様子が見えた。人種も様々で、中には楽器を鳴らす(朝から迷惑な…)者までいた。

浮かれた彼らの表情を眺め、シアラはブラウンの髪をいじりながら息を吐いた。


彼らは一様に同じ方向に歩いていく。

闘技場を中心に据え、その周りに人だかりの如く栄えた街…『ソロン』へ。


⚪︎


デニスはもう起きていた。エプロン姿で厨房に出てきたシアラはその姿を認め、起きた時に暖炉で温めていたお湯のポットを手に取りながら挨拶した。


「おはようございます。お早いんですね」

「おはよう」

「表の喧騒、凄いですね。今年もソロンで武闘大会が開かれるそうですよ。みんなそれ目当てなんです」

「そうなのか」


無関心とも、興味を持っているとも取れる返事をしながらカップを受け取るデニス。シアラはふと、疑問を投げかけた。


「デニス様も…格闘家でいらっしゃるのですか?」


逞しく鍛え上げられた腕、脚。黒い髪は短く刈ってあり、身のこなしには隙が無い。

朝早くにどこかへ行っては日が落ちてから戻る。

いかにも格闘家然とした生き方に見えた。


「…ああ」


さして躊躇もせず、デニスは答えた。


「デニス様も…ソロンへ行かれるのですか?」

「…ああ」

「………」


会話が途切れ、デニスは手に持ったカップに目を落とした。表の喧騒以外は何の音もしない。互いに黙っていた。

ふと、呟くようにシアラが言った。


「お怪我などしないよう、気をつけてくださいね」

「分かった」


デニスは再び顔を上げ、頷きながらシアラに返した。シアラは少し笑って、厨房に引き返した。




巨大な闘技場だった。


街の中央に一つだけ巨人の家でも立ったかのような異様。

向かい合う人間二人だけでは持て余すほどの広い試合場をさらに取り囲む観客席は3万人ほどを収容できるそうだ。


降り注ぐ大勢の歓声の中、闘士2人が戦っていた。


闘技場での戦いは武器などは当然持たず、素手だ。しかし片方の男は素手であることを一瞬忘れさせるほどの鋭い打撃を繰り出していた。


閃く拳。防御したはずの腕が大きく吹き飛ばされ、続く一撃をもろに鳩尾に喰らう。


「ぐがっ!!?」


何が起きたかわからない。目の前の男が腕を振ったところまではかろうじて見えたが、次の瞬間体を衝撃が襲っていた。

彼はかろうじて構え直しながら戦慄と共に目の前の男を見据えた。


「貴様…いったい今までどこにいたんだ!?貴様ほどの腕がありながら…」


目の前の男……デニスは独り言のように呟いた。


「…勘が鈍ってるな」


踏み込み、再び鳩尾に肘鉄をめり込ませる。鈍い音と共に男は崩れ落ちた。




初戦を終えたデニスは汗ひとつかかないまま宿への帰路についた。


宿に着くと、厨房からシアラが顔を出した。


「デニス様!」

「?」


彼女はデニスの目の前まで小走りで来た。いつもの大人しい彼女からは考えられない積極性のある動きに少々驚いていると、シアラは思ってもみない言葉を発した。


「私に…戦う術を教えて下さい!」

「……え?」


デニスは普段そうそう出さない間の抜けた声を出してしまった。



シアラの故郷はここから遠く離れた王国の北側にあった。子供はある程度育てば性別問わず何らかの形で売り払われるような寒村で、皆明日も分からない日々を過ごしていた。


親は子を商売道具として扱い、シアラの父母も同様だった。唯一優しかった祖母は病で亡くなり、育ったシアラを売買の対象とする父母を止める者はいなくなってしまった。


シアラは心を閉ざした。肉親からの愛は無く、親を含め村民は彼女を人扱いしなかった。一寸先の未来すら見えぬ中、寒村は唐突に不毛の生業ごと消滅した。


「山賊が…村を襲いました」

「……」


村には抵抗する力どころか山賊が目当てとするようなものすら無かった。山賊達は空き家に入ったかのような手応えのなさを感じたのか、つまらなそうに女子供を攫って行ったという。


シアラは山のように積まれた藁の中に身を隠してなんとか気付かれずに済んだが、1時間ほど経ってから恐る恐る藁から抜け出した彼女が見たものは、燃やされ、人も物も奪われ尽くした黒い更地だった。


「どこかで助けを期待していたのだと思います。力の無いものは自分の明日すら守れないのだと…その時悟りました」


シアラの目は話せば話すほど虚ろになっていた。

ふと、デニスが手近にあった紅茶のポットを彼女のカップに傾けた。おおよそ気遣いとは無縁のような男に見えていた節もあって意外に思いながらも、シアラは手元のカップの温もりに不思議と安らいだ。


「デニス様の試合を…見ていました」

「そうだったのか」


デニスを見送った後に、彼女もついて来ていたらしい。デニスは試合内容をすっかり忘れていたが、やがて思い出して少しだけ笑いながら言った。


「つまらなかったろ?」

「そんなことないです!私、デニス様の強さにとっても感動しました!」

「?……どうしてだ?」


シアラが普段見せないような元気な反応を見せたことと、自分の強さに感動を覚えたらしいことの両方が理解できずにいると、シアラは手元のカップを持ち上げながら言った。


「デニス様は…その…拳一つで戦って、日々を生きられるわけですよね?」

「そうなるな」

「それは、何かに頼らない…自分だけの力で生きていくってことだと思うんです」

「…それは、俺も含め誰しもがそうなんじゃないのか?シアラ、君も」

「いいえ。私は…生まれてからこれまでずっと、何かに縋るように生きてきました。自分1人の力で何かを為せたことなんて無いんです。自分を守る力だって無い。だから…」


彼女は立ち上がると、デニスの前まで来て頭を下げた。


「ご迷惑とは思いますが、…どうか私に戦う術を教えて下さい!」

「…なぜ俺なんだ?闘士は誰もが、今君が言ったような生活をしている。俺である必要は無いだろう?」

「そんなことありません!」


いつもの彼女からは考えられない強い表情だった。


「昔、祖母に連れられて王国のお祭りに行ったことがあります。近隣の闘士を集めて100人規模の格闘大会を開いていました。優勝した人はとても強い人でしたが、デニス様はその遥か上をいくように見えました」

「…………」

「私には強さを見極められるような知識も経験もありませんが、デニス様はとても強い人です。今日の試合を見ても、素人目にもそれが分かりました。それに…」

「?」


シアラはデニスの目を見つめながら言った。


「デニス様は、とても誠実な方だと思います。村の奴らは私を売り物としてしか見ませんでした。村を出て仕事を探している時も王国北部の寒村出身というだけで私を見下してくる人も多くいました。

デニス様は違います。私を人として見てくれたから…だから…是非デニス様にお願いしたいんです」


しばしの沈黙が流れた後、デニスは静かに言った。


「……人に物を教えたことなどないが…俺でよければ力になろう」


シアラは顔を輝かせた。


「明日以降も試合がある。その帰りでよければだが」

「はい!是非お願いします!」


いつもの控えめな笑顔ではない、心からの笑顔。

デニスはなんとなく、今自分はとても珍しい物を見ているのかもしれない、と思った。



2回戦の相手を開幕の一撃で昏倒させて闘技場を出たのが1時間前。


デニスはいつもの修行場所…森に来ていた。今日はシアラも伴っている。


森とはいうものの木の数がやや少なく、所によっては草原に近いような場所だ。ほど近くに川も流れており、さらに人気も無い。まさに修行をするのにうってつけだった。


「すみません…動きやすい格好というのがこれしか無くて…」


シアラは宿屋の服装では無く、今日は半袖に短パンという服装だった。髪も纏めていていつもとは別人のような見た目になっている。というより…。


「あ、あの……」


いつもエプロンとスカート姿でいたため分からなかったが、シアラは決して細くない。というよりむしろむちむちしている。宿屋の経営で力仕事もやっているのだろう。取り分け脚は中々太い。




「やっぱりちょっと変でしょうか?」

「ん?いや、すまん」


自信なさげな表情を浮かべ始めるシアラに気づき、デニスは修行を始める事にした。




シアラは宿を昼だけ閉め、デニスとの修行を行っていた。

彼女にとっては人生で初めての『自分を守る力』の習得ということらしい。真面目に取り組んでいる。


「(筋が良い)」


率直な感想だった。

無論実戦などまだ到底無理だろうが、突きの型だけを見れば格闘家らしくなってきた。今、シアラは昼から夕方になるまでずっと突きの練習だけをしている。


こうした基礎の鍛錬は地味で変化が無い。基礎を疎かにしてはいざ実戦になった時に自分が泣くというのは皆分かっていても、何かと理由をつけて基礎稽古をやらなくなる者達が後を絶たないのはひとえに基礎鍛錬のつまらなさゆえだった。


3日間、練習時間の間はずっと突きの練習だけをしている。なのにシアラは疑問や文句を一切言わずに黙々と拳を繰り出し続けていた。


「…今日はここまでにしよう」

「あっ…!分かりました」


構えを解くシアラ。ずっと練習していたためシアラの体からは絶えず汗が流れていた。


ふと、デニスの鼻腔をふわりと風がくすぐり、シアラの香りが流れてきた。宿の仕事をしているときは意識すらしなかった彼女の香りは汗も含んでいつもよりはっきりとしており、地味な見た目と態度だった彼女の『女』の部分をデニスに思い出させた。


何やら余計なことを考える前に邪念を頭から払い、デニスは尋ねた。


「突きの練習は俺の流派では基礎中の基礎だ。省略することはできなくてな。……まあ、耐えて続けてみてくれ」

「?」


不思議そうにこちらを見るシアラ。どうやら意味が伝わっていないようだ。


「同じ動作ばかりで飽きてくるだろう?」

「そんなことありません!飽きなんて…」

「そう…なのか?」


本心から飽きていなさそうなシアラを、デニスはまじまじと見つめた。


「ええ!私の突きはデニス様のものと違って完成されたものではないですから、軌道とタイミングと力の伝わりが毎回バラけてしまうのです。同じ突きは一つもないので、毎回試行錯誤の繰り返しで……」


控えめに笑うシアラ。


……デニスは師匠の言葉を思い出していた。


『デニスよ。お前には才がある。お前が練習をサボらなければ並の格闘家は相手にならぬだろうし、そこそこ強い奴もまあ倒せるだろう。しかしな、真に才あるものは、今のお前のように基礎稽古をつまらんと感じる余裕は無い。同じ動作の中に細かい差異を見つけ、それらの修正に夢中になってしまうのだ。そして自分より遥かに強い者と戦う時も、戦う最中に相手の動きからすらヒントを得て自分のものにしてしまう。時にはそのまま強者すら打ち倒してしまうのだ。

それがもしかしたら、天才と呼ばれる者どもなのかもしれん』


3日目だからまだ飽きてないのかも知れなかったし、人生を変えるという大きなやる気が練習に身を入れさせるのかもしれない。


「(何だ?この感覚は…)」


突如、デニスの胸に僅かな締め付けのような感覚が発生した。

しかしそれは小さな波紋のようにやがて消えていった。



技は大振り、威力十分。

それだけだった。


「ははは!避けるだけか?閃撃のデニスとやら!」

「誰だそれは?」


次なる一撃を構え、思い切り踏み込みながら右の拳をまっすぐ繰り出す大男。デニスは僅かに逆側に踏み出し、腰を落とし、最小限の動作で渾身の掌底を腹部に叩き込んだ。大男の拳打は唸りを上げながらデニスのすぐ左隣を通過した。


カウンター。


鈍い音が響いた。

自分の拳打の勢いが仇となり、男は頭から闘技場の地面に突っ込んで動かなくなった。


勝者の名が高らかに宣言された。一回戦と二回戦では無かった演出にデニスは顔をしかめ、大男が運ばれていくのを見もせずに自陣側へ引き返して行った。




「今日の試合も凄かったです!」

「すぐ終わったぞ」

「それでもです!」


森で蹴りの稽古をしている最中、楽しげに語るシアラに気のない返事を返すデニス。


「あんなに大きい人だったのに、一撃で倒してしまわれるなんてやっぱりデニス様は凄い方です!」

「同じパターンでバカみたいに突っ込んできたからな。見切るのは簡単だ」

「私でも出来ますか?」

「ああ、出来る。予備動作があるんだ。どんな姿勢からどう振りかぶって来るかを見るだけだ。初見では難しいだろうが、2回出して来るならチャンスはある」

「そういうものなのですね」

「それには相手の動きを冷静に見続ける観察眼が必要だがな。身につけるには相応の時間が必要だ」

「なる…ほどっ!」


構えから蹴りを繰り出すシアラ。最初に比べればだいぶ見れるようになった。


……いや、先刻まで足が腰より上に上がらなかったりバランスを崩したりしていたのに、ぎこちないながらも安定した姿勢で蹴ることができるようになっていた。


上達が早い。シアラは体を動かす習慣など宿屋の仕事以外に無かったそうだ。体を動かすようになったのはつい先日という事になる。


「……シアラ」

「はい?」

「試しに俺に蹴り込んで来い」

「え?そ、そんな…」

「全力でやれ」


尻込みするシアラだが、デニスの表情から本気を感じ取ってやむなく構える。


「い、行きますよ〜…!」

「来い」


構え、息を整え、踏み込み、


「えいっ!」


シアラの前蹴りがデニスの腹筋に当たる。

瞬間、シアラの脳裏に巨壁が思い浮かぶ。逆に反動で後ろに大きくよろけた。


「凄い……。まるで手応えが無いです」

「当たり前だ。お前の蹴りで俺がダメージ喰らうわけないだろ」

「むっ……そんな、堂々と言わなくても……」


膨れるシアラ。大人しそうだが、意外と負けん気のようなものもあるらしい。


「そろそろ時間だな」

「えっ……ほんとだ。私ったらつい夢中になって…」


日が燃えるような色に変わり始めていた。シアラはデニスを振り返って、


「先に戻って夕食の準備をしております。デニス様はゆっくり来てくださいね」


そう言って笑うと、たったったっ、と宿の方へ駆けて行った。

格闘技を教え始めてからの彼女は日を追うごとに明るくなっていく。元来こういう少女のような一面もあったのだろう。デニスはシアラの後ろ姿を見送った。


…ふと、修行を始めたての頃の彼自身を思い浮かべる。


突きは師匠が付きっきりで指導してくれて、それでもまともな形になるまで2週間はかかった。形だけではなくしっかり力を伴った拳になるまでは1日2日では到底無理だった。蹴りともなればもっとかかった。全て懐かしい思い出だが、デニスは妙な感覚を覚えていた。


シアラは突きを3日間で形にしていた。1日目の終わりには形だけはできていたし、3日目の朝には風を切る音が聞こえていた。


蹴りの稽古を始めたのは今日からだが、始めてから1時間ですでに蹴り以外の何物にも見えない動作に仕上がっていた。そして…。


「………」


デニスは自分の下腹部に指で軽く触れた。今も熱を持った軽い痺れが残っている。


デニスはシアラが去った方向の森の木々を眺めた。夕暮れ時のそれらはすでに闇を帯びており、デニスの胸中にある謎の小さな疼きを増そうとして来るかのようだった。



素早い動きでこちらを翻弄しようとして来る。確かにステップからの切れ味鋭い打撃は脅威だ。


デニスは異国風の褐色の男が繰り出す舞のような打撃を防ぎながら、相手の動きを観察していた。


攻防一体のコマのような動きだが、ステップを踏み続ける相手に向かってデニスは無造作に歩み寄る。


「……万策尽きたのか?」


異国風の男はそう呟き、無防備に近づいてきたデニスの顔面目掛け、回転を乗せた肘鉄を振り下ろした。


次の瞬間。足に衝撃が走り、男の視界が天地逆さまになる。

強烈な足払いだと気付いた瞬間、受け身を取ろうとした男の目の前に腰を落としたデニスの姿があった。


回避も叶わない。


ドゴッ………!!!


溜めて放たれた正拳突きは男の腹を正確に捉え、男は人体には耐え難い衝撃をまともにくらって5mほど吹き飛んだ後動かなくなった。


「勝者!閃撃のデニスーーーーー!!!!!」


頼んだわけでも無いのに勝手につけられた二つ名を聞こえないよう振る舞いながら、次の決勝のことを考える。


今日は決勝トーナメントだ。この後夕方に決勝が行われ、それに勝てば優勝が決まる。最終日だけこんな形を取るのがいかにも興行的だが、デニスの体力はほぼ完全に近かった。


控え室(今日は個室が用意されていた)に戻るとシアラが出迎えてくれた。


「デニス様…!」

「よう」


軽い挨拶を返して椅子に座る。シアラがお茶など持ってきてくれた。礼を言って一口すする。


「…次は決勝ですね」

「そうだな」


何の気負いも無い。本心からそう思う。デニスは今しがたの試合のことなどより、シアラといる時の違和感に似た感情の方が気になっていた。


シアラは良い人間だ。修行を通じて互いのことをより知ったし、宿に戻ってからも他愛無い話や、技術の話をする。


なのに、何か引っ掛かる。彼女の行動とか仕草では無い。だったら一体何だと言うのか。


デニスはこの感情に最も近いものを探るが、何に似ているのかすらわからなかった。


「デニス様はやっぱり強かったんですね。次の相手に勝てば、大陸で最強の闘士ということになります。……大変な名誉ですね」

「…次の相手が強かったならな」

デニスは備え付けのベッドに背中を預けた。


「時間になったら起こしてくれ」

「あ…寝てしまわれるのですか?」


言うが早いかデニスは静かな寝息を立てていた。決勝を前にして合理的ではあったが、緊張などかけらもしていないようだ。


「………」


シアラはデニスの寝顔を見つめながら、物思いに耽るように椅子に身を預けた。心なしかデニスの態度がそっけない気がする。


しばらくして、外から打楽器が激しく叩かれる音が響いてきた。決勝が始まろうとしているようだ。シアラが言うより早く、デニスはむくりと起き上がった。


「あ……」

「…目覚ましにしてはうるさすぎるな」


無造作に身を起こし、扉に近づくデニス。扉を開けて1分ほど歩けばそこはもう決勝の舞台だ。


「デニス様…」

「?なんだ?」


何かを言い淀み、結局、シアラは言えなかった。ただ一言、


「が、頑張ってください…!」

「ん」


気負いなく出ていくデニスの背を見送りながら、シアラは言えなかった言葉を飲み込んでいた。



「お前がデニスだな」

「誰だお前は」


決勝の舞台。対面から歩いてきたのは金髪の男だった。精悍な顔つきに自信を漲らせ、即座に構える。


「俺はクラウスだ。いくぞ!」

「む…」


クラウスと名乗った男は微塵の隙もない構えを取りながら鋭い闘気を放っていた。


「(強い…)」


デニスは大会を通して初めて、自分と同じ領域に立つ強者の香りを感じ取った。


「…本気で行かせてもらおう」


デニスが構えた。




「(デニス様が構えた!初めて見た…!)」


客席のシアラは驚きに満ちた目でデニスを見た。


普段のデニスだったら。

一見無防備にすら見える動きで遠慮なく相手に近づいた後、圧倒的な力量差で叩き潰す以外の動きなど見せない。構えたりなんかしたことはない。


次の瞬間。2人が交錯した。


デニスが繰り出した右の正拳をクラウスが抱え込み、足を蹴り払って転ばせようとする。瞬時にデニスがクラウスを左掌底で吹き飛ばし、関節技を避けながら攻撃を加える。クラウスは一旦距離を取ったと思うや否や閃光のような上段蹴りを放ち、デニスはそれを肩で防御する。


これまでの試合は何だったのかと思うような圧倒的な攻防に、観客は大いに湧き立った。




果てない応酬にも限界が訪れる。


「(頭を止めるな!必ずこいつにも綻びがある!)」


デニスは感覚だけで体を動かしながら、千載一遇の隙を探していた。


自分にこんな一面があったとは知らなかった。何故だか晴れやかな気分だ。

身につけた技術の全てが彼を肯定している。クラウスは正真正銘の強敵だ。ほぼ同じ力量でありながら、パワーにおいてはデニスをも上回る。

そんな相手を前に自分は一歩も引いていない。胸の違和感など、どこかに綺麗さっぱり過ぎ去ってしまっていた。


これが俺だ。真の格闘家を目指し、ただ強敵と戦い、強くなる。


クラウスに感謝にも似た気持ちが湧き上がる。


「しぶてえ野郎だ!いい加減倒れやがれ!!」


クラウスが叫びながら左の中段蹴りを放つ。

この男の蹴りは1発1発がとんでもない威力だ。デニスは覚悟を決めた。


ドゴォッ!!!!!


「(なッ……!!?)」


クラウスの目が驚きに見開かれる。自身が放った一撃は狙い通りデニスの脇腹を捉えていた。デニスは防御できていない。前に倒れ込んでいくデニス…、


勝利の2文字を思い浮かべた瞬間、クラウスの腹に触れる感触があった。


一点に集中した衝撃は、まるで槍の一撃の如くクラウスの腹部に襲いかかった。


渾身の踏み込み掌底がクラウスを吹き飛ばした。最後にゆらりと立ち上がる勝者を見て、クラウスは心の中で悪態をついた。



夜が明ける。


シアラはベッドから起き上がり、外の様子を見た。


昨晩、大勢の観客たちが各々の国へ旅立っていった。ソロンは静まり返り、朝靄に包まれた闘技場は眠ったようだった。


シアラは厨房に出てお湯を沸かし、朝食を作りかけてふと手をとめた。


やけに静かだ。


何となく2階へ上がり、デニスの部屋の扉をノックする。扉は少し開いていた。風が入り、扉がゆっくり開く。


デニスはいなかった。


小机の上に紙切れがある。シアラはそれを手に取った。


『世話になった。宿代を置いておく』


すぐそばの布袋が目についた。中を見ると、金貨が1枚入っていた。宿代としては破格で、彼の感謝の気持ちなのだと気づく。


シアラは窓の外を見た。吹き抜ける風以外には草原が広がるばかりだった。





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